同窓生シリーズ 第78回
ローマ大学時代
ローマ大学に留学したのは、24歳の時なので44年前になる。イタリア政府奨学金留学生の試験に受かったとはいえ、当時の私のイタリア語はひどいものだった。そのことはローマ大学での授業を聞くようになって、さらに明々白々となった。2,3割しか聴きとれなかったがともかう耳の訓練と考え出席を続けると、半年もたたないうちにどうにか内容を把握できるようになった。古代ローマ文化を研究する最低限の資格を手に入れた。しかし、研究者としてみとめてもらうにはそれから4~5年かかった。何本かの論文をイタリアやドイツの学術雑誌に発表することができたからである。
論文の内容はおもに発掘から得た知見で、できることなら20~30ページの論文として纏めたかったが、駆け出しの若手研究者であるからその三分の一のスペースを確保するのが精一杯だった。いつの日か、自分自身が編集主幹を務める学術雑誌を、イタリアで発行したいと思うようになったのはそのころである。
思い描く夢
日本に帰ってからも、毎年数ヶ月、発掘調査のためにイタリアで過ごした。最初の5年はポンペイを中心として、三十代半ばから十年近くはシチリア島のアグリジェントで、そして、四十代半ばからはローマの北約120キロのタルクィニアという町の近郊においてである。この間、発掘調査の成果は報告書としてイタリア語や英語で発表すると同時に、英独伊の学術雑誌にも寄稿した。自前の学術雑誌を持ちたいという気持ちに変わりはなかったが、発掘調査に追われて具体的な行動にまでつながることはなかった。
古代ローマの別荘研究
ところが、ソンマ・ヴェスヴィアーナでの発掘調査を始めた十年前から、再び学術雑誌を発行したいという気持ちに火がついた。三〇年近くイタリアで調査研究を続けてきたため、古代ローマの別荘研究に関しては一定の評価を受けるようになり、そのおかげで地元ではローマ帝国初代皇帝アウグルトゥスの別荘かもしれないという重要な遺跡の発掘許可をイタリア政府から得ることができた。同時に日本からも毎年二億円近くの研究費を獲得する目途が立った。日本隊がナポリの東約二〇キロのところで発掘を行っており、ディオニュソスの大理石像などが出土しているというニュースがテレビなどで発表されると、さまざまな国の考古学者が来てくれるようになった。彼らと意見交換をしたり、どこそこの遺跡では誰が発掘をしているといった情報が数多くもたらされるようになり、とくに古代ローマ時代の別荘文化に関する学術雑誌がないこと、そして、そのような雑誌を発行すれば学会に貢献できることが分かってきたので、今度は是非とも実現しようと考えた。友人の国立印刷造幣局から出版するのがいいではないか、という意見をもらった。たしかにイタリアで代表的な遺跡であるポンペイやオスティアの見事な報告書を出版しているところである。
学術雑誌を持ちたいという夢がかなう
イタリアで重きを置いている何人かの考古学者たちが推薦してくれたので、案外簡単に国立印刷造幣局は学術雑誌の発行を引き受けてくれた。もちろん私が編集主幹として全体を総括することを含めてである。2010年に第一号の観光にこぎつけ、第二号が最近ようやく上梓された。イタリアに初めて渡ったころに思い描いた夢が、六十歳を過ぎてようやく実現した。その間、さまざまなことがあったが、同じ夢を見続けるといつかは実現するものだという実感を、最近、ひしひしと感じている。