38回生 松浦 俊夫

同窓生シリーズ 第105回

日本のクラブカルチャーをけん引してきたDJ/選曲家の松浦俊夫さんにお話を伺いました。

松浦 俊夫 Toshio Matsuura

1990年、United Future Organization (U.F.O.)を結成。5作のフルアルバムを世界32ヶ国で発表し高い評価を得る。

2002年のソロ転向後も国内外のクラブやフェスティバルでDJとして活躍。またイベントのプロデュースやホテル、インターナショナル・ブランド、星付き飲食店など、高感度なライフスタイル・スポットの音楽監修を手掛ける。

2013年、現在進行形のジャズを発信するプロジェクトHEXを始動させ、Blue Note Recordsからアルバム『HEX』をワールドワイド・リリース。

2018年、イギリスの若手ミュージシャンらをフィーチャーした新プロジェクト、TOSHIO MATSUURA GROUPのアルバムをワールドワイド・リリース。

毎週金曜午後11時”好奇心旺盛な大人のための音楽番組”「TOKYO MOON」がインターFMにてオンエアされている。

新宿高校と聞いて何を思い出しますか?

たぶん今も変わってないと思いますが、制服の着用義務がなかったです。選択授業があって自由な時間帯ができたりして、大学ってこういうところなのかなぁとイメージしていました。自由な校風でしたが、先生たちはけっこう厳しかったです。

2年3年のときのクラスは優等生も劣等生も一緒にいてみんな仲が良かったです。体育祭や文化祭が終わってから行ったクラスの打ち上げは強く思い出に残っています。

思い出に残っている先生はいますか?

授業中以外はずっと学校の外周を走っていた有元先生のことはみんな覚えていると思います。体育の先生ではなかったと思うのですが、常に走っているイメージで有名でした。あと、ハンドボール部の顧問をしていた島田先生も覚えています。(島田房二先生は1992年バルセロナオリンピックに審判員として参加、ハンドボール界で日本人初のオリンピックレフェリーとして活躍しました)

高校卒業後のことをお聞かせください。

卒業してすぐの4月に代々木公園で東京コレクションというファッションショーが行われていて、高校時代から読んでいたファッション誌の懸賞で菊池武夫さんのショーのチケットが当たったので一人でみに行きました。洋服と音楽と演出で一つになって劇のようになっているものが当時は多く、そこで使われているのが踊るジャズというスタイルでした。菊池さんのショーでもロンドンから来たDJがジャズをかけてダンサーの人たちが踊っていました。それをみた瞬間に自分が求めていたものはこれだと思いました。人生を変えてくれるきっかけになったし、来日したDJたちと今も付き合いがあるのでそこからすべてが始まったような感じですね。

その年の年末に菊池さんがプロデュースするビルが西麻布に建てられて、ビルの地下にジャズで踊るクラブができて、当時働いていたイタリアンレストランの系列の会社が運営するというので頼み込んでそこのスタッフになりました。音楽プロデューサーの桑原茂一さんがいらっしゃったとき、スタッフの方にこれから自分はどうしたらいいのかみたいな悩みを相談していたら、じゃあうちに来ればいいよと言ってもらって、1987年の4月にその事務所に入って、テレビ朝日の音楽情報番組『クラブキング』の制作のアシスタントなどをやっていました。テレビ番組の音楽を選んだり、ファッションショーの音楽を選んだりが主だったのですが、広告の営業などいろいろやりました。DJになりたいというよりは日々働いて3年間修業をしてから独立して、そこで一緒だった二人と会社名をユニットにしたUnited Future Organization(U.F.O.)を結成しました。

1992年に『LOUD MINORITY』という曲がTBSの深夜番組『世界かれいどすこうぷ』のテーマ曲になったり、テレビ東京の深夜番組『モグラネグラ』でORIGINAL LOVEの田島貴男さんと女優の鈴木杏樹さんと司会をしたりしました。今よりもテレビの影響が大きかったので、渋谷の公園通りを歩いても50メートルおきぐらいに声をかけられたりして、最初の頃は嬉しかったけど誰かが自分を見ているみたいな感じでけっこうノイローゼになりました(笑)。テレビに出て精神的にきついこともあったけど、メジャー・レーベルから話をもらって、1993年に契約しました。いろんなところでいろんなことをして、海外数十カ国も回って、フジロックフェスティバルの元になっているイギリスのグラストンベリー・フェスティバルやヨーロッパのメジャーなジャズフェスティバルなどにも出演しました。山奥の会場までヘリコプターでメンバー三人を運んでもらったこともあって、面白かったですね。イギリスと日本が文化交流していたようなところで、ドイツやアメリカとかやってきて、そのときに繋がった人たちと今も繋がっています。そういうことってなかなかないので、この仕事というか、この道を選んで良かったと思いますし、非常に大変ではありますが生きがいを感じてやっています。

鈴木杏樹さん(中央)と田島貴男さん(右)

カナダの音楽フェスティバルでプレイしたとき

DJやラジオ番組で世界中の曲を紹介していますが、どうやって知るのでしょうか?

一週間で700~800ぐらいの新曲を聞くのですが、毎日7時ぐらいから2時ぐらいまでずっと聞いています。昨日出たものを明日どうやって聞かせることができるかというのが自分の使命かなという思いがあります。

誰も歩まない道を歩まれているなと思いますが、それについてどう思いますか?

人と同じことをするのは嫌だという思いがあったのかもしれません。個性をどう出せばいいのか、どうやって見つければいいのかというのはすごく難しいので、もう60歳近いですけどまだ道半ばという思いは強いし、全然たどりついていないような気がします。しかも、その道は細く急になっていって、自分のその体力で歩んで行くのがすごく難しいと実感するのですが、みてくれる人たちもいるし、ここまで来てもうやめることはできないというのもあります。一本の道を貫き通して最終的に何らかの形として残って、100年後ぐらいに評価されたら良いなという思いでやっている感じがします。どこまで行けるかわからないけど進み続けるしかないですね。

1992年に初のイギリスツアーでプレイした南ロンドンのナイトクラブの入口でメンバーと

新宿高校生にメッセージをお願いします。

生きがいとなるような好奇心が見つけられて仕事になれば理想だし、そうでなかったとしても好奇心みたいなものを持ち続けることができれば、時代が変わったとしてもどんな状況にいても楽しむことができると思います。